鯖江市石田(立待地区)はその昔、洪水のたびに田畑が石の野原のようになったことからに由来します。そして、貧しい住民を救うために高島善左衛門氏が奮起し、縞織物の盛んな美濃で織物を習い、職工を招いて工場を建てたのが石田縞の始まりです。
石田縞は、木綿を使った藍染中心の縞柄の織物で、当時は庶民の普段着や野良着、あるいは布団地として多くの人に着用、使用され、丈夫さにも定評がありました。
明治後期〜大正には福井県下の女学校や小学校の制服に指定され、〝学校縞〞とも呼ばれ最盛期を迎えました。昭和に入ると他の織物が盛んになり石田縞は縮小、衰退へ。一旦、途絶えた石田縞ですが、昭和47年の立待小学校創立百周年記念イベントを機に復元され、その技が今なお、継承されています。昔は藍染が主流でしたが、現在は地元で採取した桜や玉ねぎ、よもぎなどで染め、素朴で手織りの優しい風合いを楽しむことができます。また福井出身の作家、津村節子氏の『遅咲きの梅』では、石田縞復元当時の社会や暮らしぶり、石田縞の魅力が書かれています。